続き
まとめとかめんどくせえので垂れ流し。誰か俺にブログの設定法とか教えてけれ。あやさんとかさ。…あ、ラベル貼ればいいのか?
男の住むアパートの隣室は長いこと空き部屋だったが、1年前の春から父と娘らしき二人が暮らし始めた。定食屋の店員や図書館の司書を除けば、彼らが唯一男と言葉を交わす存在だった。といって、ゴミ出しの日に玄関口で会った際軽く会釈を行う程度の仲でしかないのだが。
父は日本全国どこにでもいるような中年男で、薄い髪と脂ぎった頭皮と冴えない愛想笑いをトレードマークとしていた。娘は近所の高校に通っているらしく、毎朝自転車を駆ってセーラー服の襟をはためかせながらすっ飛んでいく様をしばしば見かけた。際立った美人でもないが、清潔感を感じられる立ち居振る舞いに、男は漠然と好感を抱いていた。
二人がどういった理由でこのような貧乏学生くらいしか住まないアパートにいるのか男は知らないし、興味もあまりなかった。大方あの頼りなさげな父親が借金でもこしらえて流れ着いたのだろうと簡単に予想し、それで済ませた。その予想を裏付けるわけでもなかろうが、父親は一向に働いている様子を見せなかった。いつでも部屋にいるらしく、男が昼飯を食っていると薄い壁の向こうからテレビの音が聞こえてくることもしばしばあった。
夏になるとトタン屋根のアパートはとかく蒸しに蒸した。稼ぐ当てもない生活を送る者は当然冷房にかかる電気代を惜む。窓を開け放して借りたジイドの短編に目を落としているうちにも、汗が畳の上に池のように溜まった。起きていれば腹も減るし小便もしたくなる、それすらわずらわしければ目を閉じるしかない。どろどろの身体で見る夢は嫌な熱を帯びて、男を毎度の如く苛んだ。一人には慣れた、孤独という名の毒にもいつしか耐性はついた。それでも、時折狭い下宿の寝返りの幅の意外な広さに戸惑うことは誰だってあるものだ。
心地よい風に目を覚ますと、辺りはすっかり日も落ちていた。汗だくの身を引きずるように銭湯に向かうと、偶然隣室の親子が出てくるところに出くわした。いつものように軽く会釈を交わしたが、いつもと違って親子の手はしっかりと互いを握り合っていた。それは全く無造作に男の胸を突いた。二十数年生きた男がついぞ手に入れられなかった、もしくは手にしていたことすら忘れていたものが、目の前にひょいと現れた気がした。風呂から出て牛乳を飲んでいる間も、その光景が男の頭の隅に焼きついて離れなかった。
二度目の偶然は秋口に起きた。深夜腹を減らした男は通性に従って戸棚を漁ってみたものの、買い置きのカップ麺はとうの昔に切れていた。コンビニに行くかそのまま寝てしまうかしばらく考えた後、男は第三の道を選んだ。行きつけの定食屋の向かいの中華料理屋が明け方五時まで開いているのを思い出したのだ。貧すれば鈍すというのは真理で、金がないものほどえてして必要な手間を惜しんでしまう。
カウンターに座り、餃子とラーメンを注文し、スポーツ新聞を取りに行こうとした時、男は奥のテーブルに突っ伏して鼾をかいている隣室の父親を発見した。見知った犬猫の礫死体を見かけた時の気分、気まずいがだからといってどうする気にもなれず、男はそのままカウンターに戻って食事を済ませた。
存外しつこい餃子を胃に収め勘定を済ませていると、奥のテーブルの父親が店員に乱暴に肩を揺さぶられていた。後1時間もたたずに店じまいの時間になる上、客は二人しかいないとなれば、自然にそういう扱いにもなるのだろう。今度は男もなんだか観念したような気にさせられて、彼は店員に知り合いであることを告げ、父親の肩を引き起こして店を出た。
酒と加齢臭の混じった匂いに辟易しながら近所の路地まで差し掛かると、ようやく父親が意識を取り戻した。父親は呂律の回らない舌で何度も男に礼を述べた。適当に相槌を打てばそれで済んだのだろうが、この時に限って男はなんとなくだらしのない隣人に、自分を棚に上げて憤慨めいた感情を抱いていた。
「娘さん、心配してますよ」
「…娘、娘ですか。あれは、今日はお泊りというやつですよ」
でなければこんな時間まで飲んではいない、父親はそういって薄く笑った。
「お泊り、ですか」
「ああ。女友達と一緒って話だが、どうだかねえ」
「どうだかって」
あの子が?男の脳裏に娘の綺麗な襟足が一瞬浮かんで消えた。
「でも、いいんですよ。そのうち離れていくのは、ねえ。当然なんですから」
「…」
「それに、あれがいるとおちおち晩酌も出来やしない。だから丁度よかったんです」
そういうものだろうか。数年前の記憶すらろくに覚えてない男には、標準的な家族の有様などわかりはしなかった。しかしその疑問は素直に口をついて出ず、代わりにこんな言葉が不意に飛び出た。
「…そんなに旨いものですかね、酒ってのは」
「はい?」
「俺は、酒を旨いと思って呑んだことはないです」
「ふむ…じゃあ、何故呑むんだい」
「普段は呑みません。金を食うし」
「それでも、たまには呑むのだろう」
「…旨いと思わないからですよ。そういう呑み方もあると思います」
自分でも何を言っているかわからなくなった。しかし父親は彼の言葉に少なからず感銘を受けたらしく、ふいに真顔になってこう言った。
「兄さんは、いい人だったんだねえ。ろくに働きもしない怪しい人間だとずっと思っていたが」
いい人?この俺が?その言葉には、彼も苦笑せざるを得なかった。父親も笑い出し、しばらく二人で路上で笑いあった。
男の住むアパートの隣室は長いこと空き部屋だったが、1年前の春から父と娘らしき二人が暮らし始めた。定食屋の店員や図書館の司書を除けば、彼らが唯一男と言葉を交わす存在だった。といって、ゴミ出しの日に玄関口で会った際軽く会釈を行う程度の仲でしかないのだが。
父は日本全国どこにでもいるような中年男で、薄い髪と脂ぎった頭皮と冴えない愛想笑いをトレードマークとしていた。娘は近所の高校に通っているらしく、毎朝自転車を駆ってセーラー服の襟をはためかせながらすっ飛んでいく様をしばしば見かけた。際立った美人でもないが、清潔感を感じられる立ち居振る舞いに、男は漠然と好感を抱いていた。
二人がどういった理由でこのような貧乏学生くらいしか住まないアパートにいるのか男は知らないし、興味もあまりなかった。大方あの頼りなさげな父親が借金でもこしらえて流れ着いたのだろうと簡単に予想し、それで済ませた。その予想を裏付けるわけでもなかろうが、父親は一向に働いている様子を見せなかった。いつでも部屋にいるらしく、男が昼飯を食っていると薄い壁の向こうからテレビの音が聞こえてくることもしばしばあった。
夏になるとトタン屋根のアパートはとかく蒸しに蒸した。稼ぐ当てもない生活を送る者は当然冷房にかかる電気代を惜む。窓を開け放して借りたジイドの短編に目を落としているうちにも、汗が畳の上に池のように溜まった。起きていれば腹も減るし小便もしたくなる、それすらわずらわしければ目を閉じるしかない。どろどろの身体で見る夢は嫌な熱を帯びて、男を毎度の如く苛んだ。一人には慣れた、孤独という名の毒にもいつしか耐性はついた。それでも、時折狭い下宿の寝返りの幅の意外な広さに戸惑うことは誰だってあるものだ。
心地よい風に目を覚ますと、辺りはすっかり日も落ちていた。汗だくの身を引きずるように銭湯に向かうと、偶然隣室の親子が出てくるところに出くわした。いつものように軽く会釈を交わしたが、いつもと違って親子の手はしっかりと互いを握り合っていた。それは全く無造作に男の胸を突いた。二十数年生きた男がついぞ手に入れられなかった、もしくは手にしていたことすら忘れていたものが、目の前にひょいと現れた気がした。風呂から出て牛乳を飲んでいる間も、その光景が男の頭の隅に焼きついて離れなかった。
二度目の偶然は秋口に起きた。深夜腹を減らした男は通性に従って戸棚を漁ってみたものの、買い置きのカップ麺はとうの昔に切れていた。コンビニに行くかそのまま寝てしまうかしばらく考えた後、男は第三の道を選んだ。行きつけの定食屋の向かいの中華料理屋が明け方五時まで開いているのを思い出したのだ。貧すれば鈍すというのは真理で、金がないものほどえてして必要な手間を惜しんでしまう。
カウンターに座り、餃子とラーメンを注文し、スポーツ新聞を取りに行こうとした時、男は奥のテーブルに突っ伏して鼾をかいている隣室の父親を発見した。見知った犬猫の礫死体を見かけた時の気分、気まずいがだからといってどうする気にもなれず、男はそのままカウンターに戻って食事を済ませた。
存外しつこい餃子を胃に収め勘定を済ませていると、奥のテーブルの父親が店員に乱暴に肩を揺さぶられていた。後1時間もたたずに店じまいの時間になる上、客は二人しかいないとなれば、自然にそういう扱いにもなるのだろう。今度は男もなんだか観念したような気にさせられて、彼は店員に知り合いであることを告げ、父親の肩を引き起こして店を出た。
酒と加齢臭の混じった匂いに辟易しながら近所の路地まで差し掛かると、ようやく父親が意識を取り戻した。父親は呂律の回らない舌で何度も男に礼を述べた。適当に相槌を打てばそれで済んだのだろうが、この時に限って男はなんとなくだらしのない隣人に、自分を棚に上げて憤慨めいた感情を抱いていた。
「娘さん、心配してますよ」
「…娘、娘ですか。あれは、今日はお泊りというやつですよ」
でなければこんな時間まで飲んではいない、父親はそういって薄く笑った。
「お泊り、ですか」
「ああ。女友達と一緒って話だが、どうだかねえ」
「どうだかって」
あの子が?男の脳裏に娘の綺麗な襟足が一瞬浮かんで消えた。
「でも、いいんですよ。そのうち離れていくのは、ねえ。当然なんですから」
「…」
「それに、あれがいるとおちおち晩酌も出来やしない。だから丁度よかったんです」
そういうものだろうか。数年前の記憶すらろくに覚えてない男には、標準的な家族の有様などわかりはしなかった。しかしその疑問は素直に口をついて出ず、代わりにこんな言葉が不意に飛び出た。
「…そんなに旨いものですかね、酒ってのは」
「はい?」
「俺は、酒を旨いと思って呑んだことはないです」
「ふむ…じゃあ、何故呑むんだい」
「普段は呑みません。金を食うし」
「それでも、たまには呑むのだろう」
「…旨いと思わないからですよ。そういう呑み方もあると思います」
自分でも何を言っているかわからなくなった。しかし父親は彼の言葉に少なからず感銘を受けたらしく、ふいに真顔になってこう言った。
「兄さんは、いい人だったんだねえ。ろくに働きもしない怪しい人間だとずっと思っていたが」
いい人?この俺が?その言葉には、彼も苦笑せざるを得なかった。父親も笑い出し、しばらく二人で路上で笑いあった。
